86 でいだらの井戸

86 でいだらの井戸

 大昔、狭山の山に"大平法師(だいだらぼっち)"という大力無双の大男が棲んでいました。
 ある時、なにを思ったかだいだらぼっち、藤つるで山をしょって、のっしのっしと歩いてきました。ところが丈夫なはずの藤つるがプッツリと切れて、背中の山を落してしまいました。切れた藤つるは北の方角に投げ出され、それ以後不思議なことに北には藤が生えても、南には一本も生えなくなったということです。

 不意をつかれただいだらぼっちは思わずのけぞり、ぐっとふんばった両足の跡が大きな穴になり、水が湧き出て井戸になりました。常に豊富な水を満々とたたえてかんばつの時も涸れることなく、近隣の人々は大変助かったといわれます。だいだらぼっちの恩恵に感謝して"でいだらの井戸"と名づけました。今は民家の庭の片隅にひっそりとその名残りをとどめています。

 平らだった原に突然出来上った山を、近くの人々は丸山、或は向山とよんでいました。この丸山の裾に沿って旧青梅街道が走っていました。むかし街道を行き交う旅人達は、でいだらの井戸の水で乾いたのどをうるおし、生き返った思いで、また旅を続けました。

 丸山は何年か前にすっかり削り取られて姿を消し、今では幻の山となりました。この辺りはでいだらの井戸も含めて、芋窪と境を接する武蔵村山市中藤神明ヶ谷戸の区域ですが(もう一つのでいだらの井戸は中藤の赤堀にあります。)、水道が敷かれる前までは、ひでりの時など芋窪の人々も二斗樽を天坪で担いだり、リヤカーに四斗樽を積んだりして水を汲みに行ったそうです。そんな時は水を求める人達で長蛇の列ができたということです。

 また、一説には次のようなお話があります。
 むかしこの辺りに住む娘さんが、空腹のため疲労しきった一人の僧形の旅人を見つけました。娘は気の毒に思って、お腹の足しにと芋の煮物を差し出しました。坊さんは大変喜んで、おいしそうに食べました。そして、

 「ぜひお礼をしたいから困っている事があったら言ってごらん」
 といいました。娘は
 「村には井戸がなく人々は水不足に悩んでいます。」
 と訴えました。
 坊さんは娘の真剣な願いを汲んで、持っていた錫杖を地中にさし、ここを掘るようにと言い置いて立ち去りました。後姿に手を合わせ、急いで掘ってみるとそこからは、きれいな水が渾々(こんこん)と湧き出てきたのでした。
 娘のやさしい心根に、願いを叶えてくれた坊さんこそ、高僧弘法大師だったのです。そしてそれが、この井戸だということです。
  (東大和のよもやま話 p186~188)

慶生門裏側丘上の像


 慶生門裏側丘上の像の説明

村山貯水池内の内堀に伝わる「でえだらの井戸」

 日本の各地に伝わるユーモラスな大男大陀羅法師の足跡が、何と湖底の村にもあった。

  貯水池内に伝わった井戸は、内堀の通称「源氏」といわれる家にあった。この家は「縄大尽」ともいわれ、明治から杉本氏を名のっている。聞くところによると、この井戸は「デンドロの井戸」と言い伝えてきた。周囲には大欅(おおけやき)が立ち並び、常に清水が湧き出ていたという。(東大和市史資料編2 多摩湖の原風景p105)



立川市のでえだらぼう伝承

富士塚と弁天池

むかし。
でえだらぼうが、でっけえ下駄をはいて、あるいてきた。
富士見町のあたりまできたとき、下駄のはに、土がつまってしまった。
でえだらぼうは、足をふるって、土をおっこどした。その落ちた土が、一丁目の富士塚だということだ。
土を持っていかれたほうは池になった。それが丁目のがけ下の、弁天池だそうだ。
小沢(たちかわのむかし話p57)

武蔵村山市〔ダイダラボッチの井戸〕

 神明ケ谷戸の東端、現在は造成され駐車場になっている辺りにダイダラボッチの井戸がある。この井戸は、ダイダ
ラボッチの歩いた後に残った大きなアシッコ(足跡)で、そこから清水が湧いたものであるという。井戸はさほど深
いものではなく、また水が溜まっているものでもなく常に底の方を水が流れているようになっている。このダイダラ
ボッチは、背中に山を藤蔓(ふじつる)で縛り付けて背負って来てここで降ろしたともいわれ、そのときの山が現在神明社のある
向山であるとも東山であるともいわれている。
 入りの集落の奥、番太池の南東の人家の裏手にもダイダラボッチの井戸がある。特別な伝承はなく、神明ケ谷戸の
ものと変わりはない。
 また、入り同様、伝承そのものに大差はないが、赤堀の集落の最北端、現在テニスコートのある北側にもダイダラ
ボッチの井戸があり、貴重な生活用水になっていたという。この周辺にはいくつかの「ダイダラボッチの足跡」伝承
があり、番太池の西方、甲橋近くにも水の絶えない池があったという。

 岸のデェダラボウのアシッコの池は須賀神社の南側の所にあり、まさしく池のようなもので井戸のように深いもの
ではなかった。岸で水飢鐘があったときに、ムラの人たちが皆でその池から水を汲み出したが、決して枯れることは
なかったという。この池も現在では住宅地になってしまっている。

 これらの伝承のある場所を地図上に示してみると、ほぼ一直線に結ぶことができる。現実に地下水脈などと関係が
あるのかもしれないが、それはまさしく巨人・ダイダラボッチの歩いた足跡のようである。

 また、このような伝承は全国各地にみられるもので、巨人のほかにも弘法大師の伝説(杖を立てた場所や腰掛けた
場所にまつわる伝承など)で語られることが多い。(武蔵村山市史 民族編p687~688)